「武器を捨てよ」(下)に、今日の軍拡競争を煽る動きへの強い批判をみた

山形県の鶴岡朝暘第一小学校を視察して、図書館を活用した読書指導に感動したが、それをまねて、感動文を綴ろうと思ってみた。感動したところに、付箋を挟んで、何に感動したか、書き出してみた。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sunata/shisei/2011/20110724_liblaly.html
その写真が次のもの。
画像

 訳者の後書きのよると、この写真こそ、作者のベルタ・フォン・ヅットナー。ノーベル財団から提供されたものだとのこと。この美人の自伝か、と思いながら読んだので、余計に印象に残ったのか。あまり詳しく書くと、読む楽しみを失わせるので、これ以上細かい内容を紹介しないが、この翻訳文になれると、一気に引き込まれる。慣れないのは名前と地名だが、最初のページの人物紹介と地図に絶えず立ち返ると、そのうちにわかるようになり、ぐっと引き込まれる。当時のヨーロッパの歴史、地理を知らない私には、すこし面倒だが、翻訳物の宿命だろう。

 現代の日本では、中国の尖閣諸島問題や、北朝鮮の無法に、国民怒りが向けられているが、また、政府やマスコミなどが日本人に怒りの感情を煽っているが、この小説「武器を捨てよ」は、そのことに強い批判を寄せている。戦争で、殺し合いの生々しい状況を記し、そのことが原因で疫病が流行りたいせつな人々を失う。これを生々しく書いている。それが主人公マルタの戦争をなくそうとの思いを、より高めている。主人公マルタの夫、フリードリッヒは、二つの世界大戦の前、19世紀の出来事だが、その時代に、国家の紛争を解決するための仲裁裁判所の提案、平和の国家連合を提案している。

 ここで感動した言葉を引用しておく。
 フリードリッヒの言葉。彼は貴族で高級将校、しかし軍隊を除隊する決意を固めた。
「僕が加わるのは、平和の部隊だ。もちろん、それはまだほんの小さな勢力だし、その戦士には法理念と人間愛以外に何の武器もありはしない。しかし最後には大きくなったものも、すべて小さく目立たないところから始まったんだ」。
 今日私たちに、「日本産党の言うことは理想だが、実現しないではないか」。こんなことをよくいわれることがあるが、フリードリッヒの言葉に「新しい日本」実現に立ち向かおうとしている私たちの気持ちと共通するものを感じた。(P143)
 そして、我々の闘い方についても、心がかようことを、マルタの夫、フリードリッヒは語っている。
マルタ「それでもあなたは闘うつもりなのね?」
フリードリッヒ「そうさ、だけど相手の前に歩み出て「死ぬが言い、この怪物め!」と叫ぶようなやり方ではないよ。・・・僕の闘い方は、まだほんの少し芽を出しただけの生き物を支え、それが力と勢力を増すことによって他方を排除するにいたる、そういうものなんだ。」(P184)

 軍備拡張、核武装が平和を維持するのだという、今日の右翼、自民党・民主党らの考え方に対する現実を踏まえた批判にも、共鳴した。民・自・公らは中国、北朝鮮を念頭に、ミサイルなど自衛隊の武力の備えを声高に叫んでいる。
 19世紀、ナポレオン3世がプロシア(今のドイツ)を侵略し、反対に捕虜とされた戦争が始まる前に、ヨーロッパでは、各国が、「平和の恵みを受けるには「防衛力」を適度に高めなければなりませんでした。フランス人は信用でない。ロシア人も同じ。イタリア人など論外だ。」
 今の日本の自民・公明・民主各党の言い分と、なんと、似ていることか。

 悲劇の後のエピローグ。ここに作者の思いが明確に語られている。
 「戦争に対するたたかいを」「武器を捨てよ」
 「世論の圧力と国民の意思の絶対的な力で諸政府を動かし、将来の政府間の紛争を・・・国際仲裁裁判所に委ねること、いかなる時も武力に代えて法に働きかけることです。それが夢でも「狂信」でもないことは、事実が証明しています。アラバマ号やカロリン諸島、さらにいくつかの問題が、このようにしてすでに調停されました。」(P259)
 彼らの理想を追求するたたかいは、19世紀、20世紀と受け継がれ、21世紀には、国連がアメリカのイラク侵略を容認しないところまで、社会は進歩してきている。南米やASEANの出来事が、21世紀での平和の流れを証明しつつあるのではないか。
 この歴史の流れをすすめる私たちのたたかいは、小さいようだが、決して小さくはないと言うことを、教えてくれているのが、この本だと思っている。
 ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
 「武器を捨てよ・上」について私の感想は次のページです。
http://06996341.at.webry.info/201105/article_11.html

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