レ・ミゼラブルの作者、ビクトル・ユーゴーが日本へ紹介された経過

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ユーゴーと日本文学 神崎 清
これは近世文化の研究 藤村博士功績記念会編 昭和11年11月10日印刷 の604ページからにある。
この本は、偶然ある方より譲り受けたものである。
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ビクトル・ユーゴーは明治18年(1885年)にその訃報が日本に伝えられた。

ユーゴーに関する日本人の最初の記録は、「渡六之助の「法普戦争史略」(明治4年・1871年)に求めねばならぬ。この見聞録は、……パリ・コンミュン前後の騒擾を写した貴重な日本語文献である。ルイ・ボナパルト政権の倒れるや、二十年の幽閉生活より脱して、敵軍包囲のパリに入場、三色旗革命の真実の勝利のために、詩集を売って大砲二門を国民軍に与えた熱烈な共和主義者ユーゴーの活躍が、たとえ断片的にもせよ、一日本人の頭脳に生じたことは、偶然以上の興味がある。」(P六〇四)
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私にとってこの部分で、ユーゴーがフランスの政治文学者で、共和主義者であったことがわかった。
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「ユーゴー伝来史におけるもっとも重要な役割は、自由党総裁板垣退助の占めるところである。明治16年(1883年)、外遊中の板垣はフランスでユーゴーと会見した。八十幾歳のユーゴーは、この東洋の有名な自由政治家に啓蒙的な政治文学の普及が、日本における民主主義運動の勝利を著しく促進するであろう、と語った。板垣は喜んで勧告に従い、多くの西洋小説を携えて帰国した。」(P六〇五)

「自由党の急進主義が破産した時、歴史は新しいユーゴーの騎手を差し招いた。」(P六〇六)
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私の感想
戦前、昭和12年に「レ・ミゼラブル」の完訳が岩波文庫で、よく発行できたものだと感心したが、板垣退助の役割があったということを初めて知った。
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けれども、明治20年代の歴史的な諸経過は、これまで愛国主義の銅像として扱われてきたユーゴーの位置を少しずつ変えていった。資本制の発達に伴って、圧迫的な空気が支配し始めるとともに、人々は新しくユーゴーの中に、社会改良主義の思想を発見するに至ったのである。かくて、「レ・ミゼラブル」の伝搬した「社会の罪」という認識が日本にも発生して、従来すべて個人の責めに帰して顧みられなかった貧困と犯罪の問題が、新しい観察と対策を要求するに至り、法律上道徳上の諸観念に著しい進歩をもたらしたのであった。
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私の感想
自己責任論について、深く考えさせてくれる指摘ではないか。
怠惰による貧乏、この側面だけを見ていると狭くなる。労働規制を掘り崩し、非正規雇用の拡大、社会保障の切り捨てなど、もっと広い視野で見なければならない大切なものを見落としてしまう。つまり「社会の罪」を見落とさせられる。レミゼラブルには、ジャンバルジャンがいまから見れば、軽微な罪で牢獄につながれたことが書いてある。
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……社会的不正の些か(いささか)なる現れに対しても仮借なく闘争したユーゴーの英雄主義ほどそれを鼓舞したものはない。真理と正義を愛する日本の青年にとって、「レ・ミゼラブル」は、もはや手放しがたい書物となり、教義となったのである。
日本の世論の関心が、政治問題から社会問題へ移るとともに、ユーゴーは暫くの間労働者階級の利害の代弁者として活動した。明治34年(1901年)、片山潜・西川光二郎の「日本の労働運動」の巻頭を飾ったのは、ほかならぬユーゴーの言葉であった。曰く「余は弱者のために強者に向かって語らん」と。
黒岩涙香が……連載し始めた……。「もしわが日本にレ・ミゼラブルの一書を翻訳する必要ありとせば、人工を以て社会の地獄を作り、男子は労働のために健康を損じ、女子は飢渇のために徳操を失し、至る所無知と貧困の存する今の時にこそあるなれ」と、涙香自身が強い動機に支配されて着手したことを告白している。(P六〇八)
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私の感想
レ・ミゼラブルを読んでいたので、ここにかかれていることはよくわかった。
今、映画が人気を博したが、今読んでも考えさせられる小説だ。
働く人々の幸せを実現する社会改革の意味をくみ取れるだろう。
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